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返事のない夜

OMR公式フィクション | 実際の利用者の体験談ではありません

薬指の物語 第二作

返事のない夜

「水曜日の午後」の続き・約四千字・十二分ほどで読めます

待つほうの水曜日

角を曲がってから、一樹は一度だけ立ち止まった。

振り返っても、もう彼女の姿は見えない位置だった。それが分かっていて、立ち止まった。秋の日差しが、ビルの窓に斜めに反射していた。

紅茶のおいしい店、探しておきます。次は――。

言いかけたところで、彼女が息を吸ったのが分かった。次のことは、まだ決めないでおきたいです。落ち着いた声だった。たぶん、ずっと前から用意していた言葉なのだろうと思った。

恥ずかしかったのは、断られたことではなかった。彼女があらかじめ言葉を用意しなければならないほど、自分が先を急いで見えていたかもしれない、ということだった。

四十八歳にもなって、と一樹は思った。それから歩き出して、事務所に戻った。

・ ・ ・

翌日は、改修中の銭湯の現場だった。

昭和の初めに建った建物で、番台の上の格天井が残っている。施主の三代目は「天井だけは何とかして残したい」と言い、一樹はそのための補強の方法を、もう二か月考えていた。古い木材は、触ってみるまで何が起きているか分からない。表面がきれいでも、中が傷んでいることがある。逆もある。

脚立の上で天井板の継ぎ目を確かめながら、彼はゆうべ書いたメッセージのことを思い出していた。

もり(送らなかった下書き)昨日はありがとうございました。とても楽しかったです。ナポリタン、おいしかったですね。あの店のことを少し調べたら、二階に昔の――

そこまで書いて、消した。建物の話になると長くなる。それは自分でも分かっていた。けれど、消した理由はそれだけではなかった。

決めたら、わたしから連絡します。彼女はそう言った。それなら、次に送るのは自分ではない。お礼を伝えるくらいはいいだろう、と一度は思った。でも、お礼の顔をした催促にならない自信がなかった。

「森さん、そこ、どうです」

下から現場監督の声がした。

「思ったよりいいです。もう少し見てから決めます」

そう答えてから、一樹は少し笑った。急いで判断しないこと。それなら、仕事では毎日やっている。

返事のない夜

三日が過ぎた。

夜の十一時、ダイニングのテーブルでスマートフォンを開くと、メッセージの画面はあの日のままだった。最後の一行は、店を決めたときの彼女の「では、水曜日に」で止まっている。

このサービスでは、送ったメッセージを相手が読んだかどうかは、こちらからは分からない。知らない人とやり取りするには、それくらいがちょうどいいのだろうと、登録したときは思った。今は少しだけ、それが落ち着かなかった。いや、と一樹は思い直す。そもそも自分は、何も送っていない。読まれたかどうかを気にするものなど、ひとつもないのだ。

それでも、画面を開いてしまう。

玄関の鍵が回る音がした。夜勤明けではなく、準夜勤の終わりだ。妻の律子が、制服の入った紙袋を提げて入ってきた。

「まだ起きてたの」

「図面、見てた」

テーブルの上にあるのはスマートフォンだけだった。律子はそれを見て、何も言わずに冷蔵庫を開け、麦茶をグラスに注いだ。

結婚して二十年になる。律子は総合病院の看護師で、夜勤のある週は、家の中ですれ違うことのほうが多い。仲が悪いわけではない。週末には一緒に買い物に行くし、航の進路のことも、二人で何度も話している。ただ、二人のあいだに、仕事と家のこと以外の話をする時間が、いつのまにかあまり残っていなかった。

律子は麦茶を半分ほど飲んでから、向かいの椅子に座った。

「この前の、水曜日の人?」

一樹は少し迷ってから、うなずいた。

「次のことは、まだ決めないでおきたいって言われた。決めたら連絡するって」

「それで、待ってるの」

「待ってる。……待ってるっていうと、なんか情けないけど」

律子は、グラスの縁を指でなぞった。

「情けなくはないでしょ。待てるなら、待てばいいじゃない」

そう言って、彼女は立ち上がった。シャワー浴びて寝る、と言って廊下へ出ていく。その背中を見ながら、一樹は、今の言葉が律子にとってどのくらい軽く、どのくらい重いものだったのかを考えた。考えても、分からなかった。分からないまま、聞けずにいることがある。それは、三年前から変わっていなかった。

三年前の約束

三年前の冬、航が中学に上がった年に、二人は一晩かけて話をした。

きっかけは、たいしたことではなかった。律子の誕生日を、一樹が一日まちがえた。律子は怒らなかった。怒らずに、「わたしたち、最近、何の話もしてないね」と言った。

その夜、二人は台所のテーブルで、明け方近くまで話した。お互いに、相手を嫌いになったわけではないこと。でも、相手だけで自分のすべてを満たそうとするのは、もう少し無理があること。それを口に出すのは、思っていたよりずっと怖かった。

最後に、律子がメモ用紙に三つ書いた。

台所のメモ家の外に、自分だけの付き合いを持つことを、お互いに止めない。家族の時間は削らない。相手のある話は、聞かれたら、ごまかさない。

そのメモは今も、律子の手帳に挟まっているはずだ。一樹がOMRに登録したのは、それから二年以上たってからだった。登録した日の夜、彼は律子にそのことを伝えた。律子は「そう」と言って、少し間を置いてから、「変な人には気をつけてね」と言った。それだけだった。

あのメモの三行で、律子が本当に平気なのかどうかを、一樹はまだ知らない。平気でなくてもいいのだと思う。ただ、平気ではないことを、ちゃんと言える場所があるかどうか。それを確かめる言葉を、彼はまだ見つけられずにいた。

だから、とあの晩のダイニングで、一樹は思った。水曜日の彼女が「決めたら連絡します」と言うまでに、どれだけのことを考えたのか。少しは分かる気がした。言葉にして相手に渡すまでのあいだに、人は何度も、言わないほうを選びかける。

・ ・ ・

週末の夜、航が珍しく、自分からリビングに降りてきた。

「父さん、ちょっといい」

高校二年の息子は、テーブルの端に座って、しばらく黙っていた。一樹は、テレビの音を小さくして、待った。

「進路のことなんだけどさ。建築じゃなくて、理学療法士って、どう思う」

この前の三者面談のあと、航はずっと口数が少なかった。担任には、工学部の名前をいくつか挙げていたはずだ。一樹の仕事を見て育ったから、そう言ったほうがいいと思ったのかもしれない。

「部活でけがしたとき、リハビリの先生がすごかったんだよ。ずっと言おうと思ってたんだけど、なんか、言いにくくて」

「いつから考えてた」

「去年の夏くらいから」

一年以上だ、と一樹は思った。一年以上、息子はそれを自分の中で温めて、今夜やっと渡しにきた。

「いいと思うよ。調べて分かったこと、また教えてくれ」

航は少し驚いた顔をして、それから、「うん」と言って二階へ上がっていった。階段の途中で、律子に何か話しかける声が聞こえた。母親には、もう話してあったのかもしれない。それでいいと思った。

ゆがんだ窓

十日目の水曜日だった。

銭湯の天井は、結局、古い板を一枚ずつ外して裏から補強し、元の位置に戻すことに決まった。手間はかかるが、三代目は「それがいい」と言った。帰りの電車の中で、一樹はそのことを、誰かに話したいと思った。思ってから、誰に話したいのかに気づいて、窓の外を見た。

家に着いたのは七時過ぎだった。着替えて手を洗い、スマートフォンを見ると、通知がひとつ来ていた。

開くまでに、少し時間がかかった。

写真が一枚、添えられていた。はがきくらいの大きさの紙に、水彩で描いた窓だった。窓枠は少し右に傾いていて、ガラスに映った空の色は、ほとんど水のように薄かった。それでも、すぐに分かった。あの喫茶店の窓だ。

さおお返事が遅くなりました。あの日の帰りに、公園で描きました。窓がゆがんでしまいました。十日、考えました。もしよければ、また水曜日に、ランチだけご一緒できますか。紅茶のおいしいお店は、探していただかなくて大丈夫です。あの店の紅茶も、おいしかったので。

一樹は、その文面を最後まで読んで、もう一度、絵を見た。

窓枠のゆがみ方に、見覚えがある気がした。古い建物の窓は、たいてい少しずつゆがんでいる。長いあいだ、重さを受けとめてきたからだ。設計の仕事をしていると、それを直したくなる。けれど、直さずに残したほうがいい窓もある。

返事を書いた。

もり(送らなかった下書き)ありがとうございます。とてもいい窓です。実はあの建物は昭和の――

そこまで書いて、一樹は手を止め、少し笑って、消した。それから、こう書き直した。

もりわかりました。水曜日に、あの店で。窓の絵、ありがとうございます。いい窓だと思います。

送ったあと、彼はしばらく画面を見ていた。読まれたかどうかは、分からない。分からなくていい、と思った。読むのも、返すのも、彼女の時間だ。

・ ・ ・

台所では、律子が夕飯の味噌汁を温めていた。今週は日勤の週だ。

「なにか、いいことあった?」

一樹は少し考えてから、言った。

「銭湯の天井、残せることになった」

「そう。よかったじゃない」

それは本当のことだった。けれど、全部ではなかった。一樹は箸を並べながら、律子の手帳に挟まっているはずのメモのことを考えた。聞かれたら、ごまかさない。聞かれなくても、話したほうがいいことがあるのかもしれない。

「それと、水曜日の人から返事が来た。また、ランチだけ」

律子は、お玉を持ったまま、少しだけこちらを見た。

「そう。……待ってよかったね」

その声が、どのくらい軽く、どのくらい重いものなのか、一樹にはやっぱり分からなかった。だから、今度は聞いてみようと思った。今夜でなくてもいい。でも、いつかではなく、近いうちに。

味噌汁の湯気の向こうで、律子の横顔は、いつもと同じに見えた。二十年見てきた顔だった。それでも、まだ知らないことがある。そう思うと、なぜか少しだけ、この台所の窓も、きれいに見えた。

(了)

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