選ばなかった水曜日
レジの列に並んでいるとき、沙織はかごの中を見下ろして、少しだけ手が止まった。
鶏のむね肉。娘の弁当用の冷凍の唐揚げ。夫が毎朝飲む無調整の豆乳。食器用洗剤の詰め替え。特売の玉ねぎ。
どれも必要なものだった。間違ったものはひとつも入っていない。けれど、このかごの中に、自分が食べたいから、自分が好きだから入れたものは、ひとつもなかった。
そう気づいたからといって、何かを足しに売り場へ戻るほどのことでもない。後ろには小さな子どもを連れた若い母親が並んでいた。沙織はそのまま会計を済ませ、エコバッグに品物を詰め、駐輪場へ向かった。
水曜日は、パートが休みの日だ。週に三日、駅前のドラッグストアで品出しをしている。残りの平日のうち、火曜日は義母の通院の付き添いがあり、金曜日はなんとなく家のことで埋まる。水曜日だけが、予定の書かれていない日だった。
予定のない日を、沙織はいつも、予定のある日のための準備に使ってきた。作り置きをして、シーツを洗って、娘の体操服のゼッケンを付け直す。それは苦ではなかった。ただ、ここ何年かの水曜日を思い出そうとしても、一日ずつの区別がつかなかった。
家に帰って冷蔵庫に食材をしまい、洗濯物を取り込みながら、彼女はさっきのかごのことをまだ考えていた。
最後に自分のために何かを選んだのは、いつだっただろう。
クローゼットの上の段を片付けたのは、その午後のことだった。冬物を出すついでのつもりだった。奥から、角の擦り切れた画用紙のスケッチブックが出てきた。二十代のころ、休みの日になると公園へ持っていった水彩用のものだ。めくると、紫陽花と、誰かの家の塀と、知らない駅のホームが、薄い色で描いてあった。
上手ではなかった。でも、その一枚一枚には、描いた日の天気が残っていた。
沙織はスケッチブックをしばらく膝に置いてから、元の場所に戻した。捨てる気にはならなかった。かといって、また描く気になったわけでもなかった。
・ ・ ・
夕方、娘の美羽が部活から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら「おなかすいた」と言った。七時過ぎに夫の圭介が帰ってきて、「ただいま」と言い、テレビのニュースをつけた。
夫は、悪い人ではない。声を荒らげたことは一度もないし、頼めば風呂掃除もしてくれる。ただ、二人のあいだの会話は、いつのまにか連絡事項だけになっていた。明日の帰りは遅い。週末は義母のところに寄る。美羽の三者面談は来週の木曜。
それが不満なのかと聞かれたら、沙織は答えに困る。どちらが悪いという話ではないと思う。ただ、話すべきことを話し終えると、その先の言葉が見つからない。たぶん、夫のほうも同じなのだろう。
その夜、娘が自分の部屋に戻り、夫が先に寝室へ行ったあと、沙織はひとりでダイニングに残って、しばらくスマートフォンを眺めていた。
名前のない欄
既婚者向けのマッチングサービスがあることは、前から知っていた。広告で見かけたこともあるし、パート先の休憩室で、誰かが冗談まじりに話していたこともある。
そのときは、自分には関係のないものだと思っていた。今でも、関係があると言い切れるわけではない。ただ、あの夜、彼女は「OMR」と書かれたページを、思ったより長く読んでいた。
登録してすぐに誰かと会えるわけではないらしかった。年齢を確認する書類を出し、確認が済むまではメッセージを送れない。写真はぼかしたままでもいい。そういう説明を、沙織は一行ずつ読んだ。読みながら、自分が「急がなくていい」と書いてある箇所を探していることに気づいた。
登録だけしてみた。運転免許証を撮影して送り、ニックネームの欄に「さお」と入れた。プロフィール写真は、窓辺に置いた観葉植物の写真にした。
困ったのは、自己紹介の欄だった。
年齢、住んでいる地域、仕事。そこまでは、すぐに書けた。けれど「好きなこと」「休日の過ごし方」という項目のところで、指が止まった。
休日は、家のことをしています。そう書いて、消した。それは過ごし方ではなく、ただの用事の一覧だった。料理。そう書いて、また消した。毎日しているけれど、好きかどうかは分からなかった。
結局、その欄は三日間、空白のままだった。
四日目の夜、沙織はクローゼットの上の段からスケッチブックを下ろしてきて、ダイニングのテーブルに置いた。それから、自己紹介の欄にこう書いた。
さお のプロフィール昔、水彩で風景を描いていました。もう何年も描いていません。好きなものを聞かれて、すぐに答えられなかったので、それを探しているところです。急いでお会いするつもりはありません。まずは、ゆっくりお話しできたらうれしいです。
書き終えて読み返すと、少し恥ずかしかった。でも、うそはひとつも書いていなかった。
ランチだけにしたい
何人かから、いいねが届いた。プロフィールを開いては閉じ、返事をしないまま一週間が過ぎた。
「もり」という人のメッセージは、その中でいちばん短かった。
もりはじめまして。プロフィールの「好きなものを探しているところ」という一文が、なんだかいいなと思いました。私は設計の仕事をしていて、古い建物を見るのが好きです。水彩で描かれていたのは、どんな景色でしたか。
どんな景色でしたか、と聞かれたのは、たぶん初めてだった。
沙織は、紫陽花と、塀と、駅のホームのことを書いた。返事は翌日の昼休みらしい時間に届いた。彼のメッセージには、たまに話が長くなるところがあった。とくにコーヒーの話になると、豆の焙煎の深さについて三段落ほど続いた。沙織はコーヒーをあまり飲まない。そのことは、まだ書かなかった。
二週間ほど、そうやって一日に一往復か二往復のやり取りが続いた。彼は四十八歳で、高校生の息子がいると書いていた。平日の昼なら、職場の近くで少し時間が取れることがある、とも。
ある晩、彼からこう届いた。
もりもしよかったら、一度お会いしてお話しできませんか。もちろん、さおさんのご都合とお気持ち次第です。
沙織はスマートフォンを伏せて、台所で湯を沸かした。沸くまでのあいだに、断る理由と、会う理由をいくつか考えた。どちらも、半分は本当で、半分は言い訳のように思えた。
会いたくないわけではなかった。けれど、会うと決めたとたんに、自分の知らないところへ流されていくような気がした。そうなるのが怖かった。そして、そうならないために自分にできることは、たぶんひとつしかなかった。
先に、言っておくことだ。
湯が沸いても、沙織はしばらく火を止めなかった。それから椅子に座り直し、打っては消し、打っては消して、最後にこう送った。
さお誘ってくださって、ありがとうございます。正直に書きます。すぐにはお会いできません。もしお会いするとしても、しばらくは平日のランチだけにしたいです。わがままを言っているのは分かっています。それでよければ、ですが。
送信したあと、彼女は画面を見ないようにして湯呑みを洗った。洗いながら、これで終わりになってもいい、と思った。そう思えたことに、少し驚いた。
返事は、その夜のうちに来ていた。
もりわかりました。教えてくださって、ありがとうございます。さおさんの決めたやり方で、お願いします。
それだけだった。条件をゆるめてほしいとも、いつまでかとも書いていなかった。
沙織は、その三行を何度か読み返した。わがままだと思っていたことを、わがままとして扱われなかった。そのことが、思っていたよりもずっと胸に残った。
・ ・ ・
最初に決めた日は、彼の都合で一週ずれた。
もりすみません、息子の三者面談が急に水曜に入ってしまいました。こちらから誘っておいて申し訳ないです。次の水曜でも大丈夫でしょうか。
文面を読んで、沙織は少し笑った。三者面談。自分も来週、美羽の三者面談に行く。この人にも、この人の水曜日があるのだと思った。それは当たり前のことなのに、なぜか安心した。
水曜日の午後
その水曜日、沙織は朝のうちに洗濯と掃除を済ませた。出かける前、夜勤明けでリビングにいた夫に「お昼、出かけてくるね」と言った。
「ああ、うん。いってらっしゃい」
水曜日の昼は、彼女の時間だった。それは二人のあいだで、いつからか決まっていることだった。誰と、どこへ、とは聞かれなかったし、沙織も言わなかった。
靴を履きながら、彼女はそのことを考えた。言わなかったことの重さを、ちゃんと自分の手で持っていたいと思った。軽いふりはしたくなかった。
・ ・ ・
待ち合わせは、公園の近くの小さな喫茶店だった。彼が「建物が古くて、窓がいい」と言って選んだ店だ。
先に着いていた彼は、メッセージの印象よりも少し背が高く、少し緊張しているように見えた。あいさつをして向かいに座ると、彼はメニューを開いて、まずコーヒーの説明を始めた。ここのは深煎りで、苦味の奥に甘さがあって、と。
沙織は、しばらく黙って聞いていた。それから言った。
「あの、実はわたし、コーヒーはあまり飲めないんです」
彼は一瞬きょとんとして、それから自分の額に手を当てた。
「……メッセージで、もう三回くらいコーヒーの話をしてましたね、僕」
「四回です」
二人で少し笑った。沙織は紅茶を頼み、彼は深煎りのコーヒーを頼んだ。ランチのナポリタンは、どちらも同じものにした。
話したのは、たいしたことではなかった。彼が今見ている古い銭湯の改修の話。沙織が昔描いた駅のホームが、どこの駅だったか思い出せないという話。彼は建物の話になるとやはり長くなり、ときどき自分で気づいて「すみません」と言った。沙織は、そのたびに「続けてください」と言った。本当に、続きが聞きたかったからだ。
一時間半は、思っていたより早く過ぎた。
会計を済ませて店を出ると、秋の日差しが斜めに歩道を照らしていた。彼は少し迷うような顔をしてから、言った。
「紅茶のおいしい店、探しておきます。次は――」
沙織は、そこで息を吸った。
「次のことは、まだ決めないでおきたいです」
言ってしまってから、自分の声が思ったより落ち着いていたことに気づいた。
「今日、すごく楽しかったです。だから、帰って、ちゃんと考えたいんです。決めたら、わたしから連絡します」
彼は、うなずいた。
「わかりました。待ってます。……いや、待ってるって言うと、急かしてるみたいですね。さおさんのペースで」
彼は軽く頭を下げ、駅とは反対の方向へ歩いていった。職場に戻るのだろう。その背中は、すぐに角を曲がって見えなくなった。
・ ・ ・
沙織はしばらく歩道に立っていた。
何かが壊れるかもしれないと思っていた。言わなければよかった、と後から思うかもしれないとも。でも、言ったあとの世界は、言う前とほとんど変わらずにそこにあった。日差しも、公園の木も、通りを渡る自転車も。変わったのは、たぶん、自分の中のどこかだけだった。
希望を言っても、関係はすぐには壊れない。そんな当たり前のことを、四十三歳になって初めて確かめたような気がした。
駅へ向かう途中、商店街の端に、小さな画材屋があった。前から知っていたのに、一度も入ったことのない店だった。
沙織は、ドアを押した。
固形の水彩絵の具の、十二色の小さなセットを買った。それから、はがきくらいの大きさのスケッチブックを一冊。レジで袋に入れてもらうとき、ふと、あのスーパーのかごのことを思い出した。
これは、自分のために選んだものだ。
帰りに公園のベンチに座って、彼女は喫茶店の窓を描いた。上手には描けなかった。窓枠はゆがみ、ガラスに映った空の色は、思っていたよりずっと薄くなった。それでも、描き終えたとき、その一枚には今日の天気が残っていた。
・ ・ ・
夕方、家に帰ると、夫がまだリビングにいた。
「おかえり。美羽、今日は部活ないって」
「そう。じゃあ、夕飯早めにしようか」
それだけの会話だった。いつもと同じだった。
台所に立ちながら、沙織は思った。今日のことを、いつか夫に話せる日が来るのかは分からない。来ないかもしれない。ただ、話せないままのことがあるうちは、ランチより先へは行かない。それは誰かに決められたことではなく、自分で決めたことだった。
夕食のあと、彼女はダイニングのテーブルで、もう一枚描いた。冷蔵庫の上に置いてある、黄色い玉ねぎ。かごに入れたときは何とも思わなかったものが、光の当たり方で、少しだけきれいに見えた。
美羽が後ろから覗きこんで、「お母さん、絵なんか描けたんだ」と言った。
「昔ね。また描いてみようかと思って」
次の水曜日に何をするかは、まだ決めていない。
でも、それを決めるのは自分だということを、沙織はもう知っていた。
(了)